神岡の地に2人目のノーベル賞受賞者!
◇個性と熱意が原動力
科学を取材して20年以上になるが、これほど魅了されたテーマは珍しい。今年のノーベル物理学賞の対象となった素粒子ニュートリノだ。魅力の神髄は、受賞する梶田隆章東京大宇宙線研究所長(56)はもちろん、いずれも恩師で2002年に受賞した小柴昌俊(89)、受賞が確実視された戸塚洋二(08年に66歳で死去)の両東大特別栄誉教授の個性にもある。
◇支えた企業人、社会にも理解
梶田さんが、受賞理由の「ニュートリノに質量あり」を国際学会で発表したのは1998年6月である。質量ゼロとしてきた理論の見直しと宇宙の成り立ち解明につながる大発見だった。観測は、地下1000メートルに建設された東大の施設「スーパーカミオカンデ」(岐阜県)で行われた。5万トンの水を蓄える巨大タンクで、内壁にはニュートリノが水と反応して生じる光をとらえる「光電子増倍管」が約1万1000本設置されている。10階建てビルが収まるほどの高さと美しさ、手作り感に私は圧倒された。
それ以上に心の琴線に触れたのが、個性あふれる研究者とそれを支える企業人だ。
梶田さんが学会発表する約2週間前、私は関係者から「すごい成果が発表される」と聞き、陣頭指揮を執る戸塚さんを訪ねた。ノートに図と数式を書き、発表を任せたという梶田さんの解析を説明してくれた。「これはノーベル賞だ」と直感した。夕方とあって、まもなく戸塚さんは「分かったよね」とウイスキーボトルを開け、ストレートで飲みながら自身の学生時代を語り始めた。「徹夜マージャンで試験を忘れて留年」「空手部の活動に没頭し、大学3〜4年の講義出席は3回」「大学院の筆記試験は不合格点だったが、小柴先生に面接で拾われた」。驚いた。私が大学で最初に受けた講義は素粒子論だが、講師に「理解できる人は一握り」と言われ、この分野に進む人は天才という印象があったからだ。
その後も研究室を訪ねると、仲間と「世界で一番でなければならない」「20年、30年先を見なければいけない」と語り合っていた。01年に過半数の光電子増倍管が破損した事故の時、当時がんと闘っていた戸塚さんが「国民の税金を無駄にして申し訳ない」と陳謝した上で「絶対に復活する」と鬼気迫る表情で訴えた姿が忘れられない。
小柴さんは「大事なのは既存の知識より意欲」と言い、第一線の研究者数十人を育てた名伯楽だが、高校時代は自治会活動に明け暮れ物理は落第点。大学の卒業成績も16科目のうち「優」はわずか二つだった。
梶田さんが科学の道を選んだのは、漢字などの暗記が苦手で考えることが好きという「消去法」だ。埼玉大では弓道部副将を務めた文武両道派で、「疑問を見逃さず追いかけるのみ」と派手なドラマを演出しない。周囲も「一歩一歩を大事に、最後に大きな成果を出している」と評する。
◇失敗にもめげず、過去の投資開花
三者三様の手法と系譜が研究を発展させたと思う。その象徴は、光電子増倍管にも表れる。小柴さんが成果を得るため「浜松ホトニクス」(浜松市)に求めたのは直径約50センチという世界最大のもの。技術陣が難色を示す中、小柴さんは昼馬輝夫社長(当時)の誕生日に触れ、「俺のほうが1日兄貴だ。年長者の言うことを聞くべきだ」と説得。「難しい決断だったが、人類の未知未到を追求するのが私たちの理念」と同社は開発に着手した。その後も梶田さんらと改良を続け、光電子増倍管は世界シェアの9割を占めるまでになった。ノーベル賞への貢献も、物質に質量を与えるヒッグス粒子の発見を含め3度になる。
スーパーカミオカンデの観測には日本を含む7カ国約120人が携わる。3人の指導を受けた現在の指揮官である中畑雅行施設長(56)は「チームワークと地道に続ける大切さを学び、失敗があってもチャンスは必ず訪れると勇気づけられた」と語る。
今世紀に入り、日本の自然科学3分野での受賞者は米国に次いで15人となった。「長く基礎研究を大切にしてきた姿勢が奏功した」と、ノーベル財団のカール・ヘンリック・ヘルディン理事長(63)が話すように、過去の投資が開花したと言える。だが、近年はすぐに役立つ成果が求められ、多くの研究者は「ヒットはあってもホームランを出しにくい」とこぼす。若手も研究職を敬遠しがちで、大学院博士課程の入学者数は03年度をピークに減少傾向にある。
学会発表から17年間、私は研究者の熱意に打たれ、社会も大量破損事故にもかかわらず再建を容認した。ここにヒントがあるように思う。何事も自らが楽しみ感動しなければ、他人は共感しにくい。今後も個性派に出会うのを楽しみにしたい。
【毎日新聞 2015年10月20日 東京朝刊より引用】